歴史ある街「尼崎」
猪名川と武庫川という二つの流れが育んだ尼崎地域には、海・川と大地の産み出す豊かな実りを求めて、原始より人々が居住しはじめました。やがて、古代から中世にかけては、大和・難波・京といった政治・経済の中心地と、西国・瀬戸内を結ぶ海陸交通の要地として栄え、さらに近世には、大坂の西の備えの城下町として発展しました。
2015年11月、サービス付き高齢者向け住宅「ヴィラ グラスセゾン」は、この歴史ある地「尼崎」に誕生しました。
昭和8年(1933)牧生騏画「大尼崎鳥瞰図」(尼崎市立地域研究史料館所蔵)
「あまがさき」の由来
尼崎という地名が歴史上はじめて登場するのは、平安時代の末から鎌倉時代初めころのことです。このころ書かれた「大物(だいもつ)浜・長洲(ながす)浜請文」(真福寺文書)という史料に、「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、尼崎が久安年間(1145~51)ころに新たに形成された土地の名前であることがわかります。現在の阪神尼崎駅から大物駅にかけての南側あたりが、もともとの尼崎という地名の場所にあたります。さきの古文書に出てくる長洲浜というのは、当時の猪名川・神崎川の河口に近い場所で、奈良の東大寺や京の鴨社の荘園がありました。大物や尼崎は、その長洲浜のさらに南に形成された砂州が陸地化し、港町となっていった場所です。
この港町尼崎が、近世には尼崎城の城下町となり、その後現在の尼崎市となっていきました。
尼崎藩と尼崎城
近世に入ると、政治・経済・軍事などあらゆる面で、大坂が幕府の西国支配の最重要拠点となり、その西に位置する尼崎は、大坂の西を守る要(かなめ)の地として、幕府から重視されることになります。
このため幕府は、大坂の陣ののち、元和3年(1617)に譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)を尼崎に配置し、新たに四層の天守を持つ本格的な近世城郭の「尼崎城」を築城させました。
尼崎藩の藩領は、現尼崎・伊丹市域から現神戸市域の須磨まで海岸地帯一帯に広がっており、尼崎城下町に加えて、高い経済力を有する兵庫津や西宮町が含まれていました。尼崎城を守備する藩にふさわしい、豊かな領地が与えられていたことがわかります。
城下町の雰囲気を今に残す「寺町」
尼崎城周辺は江戸時代、阪神間唯一の城下町として栄えていました。現在もその面影を思わせるような建物が、阪神尼崎駅前に点在しています。この中でも代表的な歴史空間、それが寺町です。11か寺が軒を連ね、国指定の重要文化財、7件をはじめ、県、市指定の文化財も多く残されています。
寺町は元和3年(1617)に戸田氏鉄が現在の北城内・南城内に尼崎城築城を命ぜられ、それにともない城下町形成の一環として寺院ばかりを集めて作った町で、城地に当たるために移転した本興寺には同年12月付の棟札がのこされています。寺町には城地に当たる寺院のほか、中世以来町場にあった寺院、周辺にあった寺院や藩主ゆかりの寺院などが集められ形成されました。寺町は城下町の北西隅、武家屋敷の北側に当たり、町場から分離して寺院の力を弱めるとともに、巨大な建物群である寺院を配置して城に対する防備の役割をもたす目的があったとも考えられています。江戸時代初期(1635年)の城下絵図には20か寺の寺院が確認できますが、今日に至るまでには藩主の交替に伴う移転や廃寺などがあり、現在は11か寺が軒を連ねています。街中にありながらも周囲の賑やかさをよそに、江戸時代城下町の雰囲気を唯一伝える町です。